Q:聖書が「誤りがない」とはどういう意味ですか?
A: それは、一切の誤りがないという意味ではなく、教義や実践において重大な誤りがないという意味です。C.S.ルイスがそうであったように、聖書が「無謬(infallible)」であると信じつつも、聖書が「無誤(inerrant)」ではないと誤って考えている人でも、真のクリスチャンであることは可能です。
Q:聖書が「無誤である」と言われるとき、それはどういう意味ですか?
A: 保守的なクリスチャンが聖書は「無誤(inerrant)」だと言うとき、それは原典に誤りがないことを意味します。その後の写本においては、神は写本者の誤りを許容されました。「聖書は無誤である」と言う人は皆、「聖書は誤りがない(infallible)」とも言います。しかし、「聖書は誤りがない」と言う人全員が、「聖書は無誤である」と言っているわけではありません。
原典が如何に誤りがないか、また現代のテキストは依然として信頼できるものの、ただ「不謬」であるに過ぎないという点について、分かりやすく解説された内容については、『今日の聖書の難問解決ハンドブック』45~48ページをご覧ください。 無誤性について同様の説明がされている他の書籍としては、『1001の聖書に関する疑問への答え』17ページ、『批評家たちが問うとき』23~24ページ、『聖書解答大全』13、25ページ、『聖書の難問百科事典』7、16ページ、および『聖書の難問』21~22ページがあります。 『聖書の総論』(p.43)では、「原典は無誤であるが、写本には誤りがある」という見解が、ジョン・カルヴァンやヒッポのアウグスティヌス(西暦354-430年)によっても支持されていたことが指摘されています。
以下は、『聖書の総論』(p.444)から引用した、「聖書解釈に関するシカゴ宣言」における無誤性に関する詳細な記述です。
「第13条:我々は、聖書の各部分の形式的および文体的な文学的範疇を認識することが、適切な聖書解釈に不可欠であることを断言し、したがって、ジャンル批評を聖書研究の多くの学問分野の一つとして重視します。
我々は、歴史性を否定するジャンル分類を、事実として提示されている聖書の物語に正当に適用できるとは認めません。
第15条:私たちは、聖書をその文字通りの、すなわち通常の意味に従って解釈する必要性を肯定します。文字通りの意味とは、文法・歴史的な意味、すなわち著者が表現した意味のことです。文字通りの意味に基づく解釈は、本文に見られるあらゆる修辞的表現や文学的様式を考慮に入れます。
私たちは、文字通りの意味によって裏付けられない意味を聖書に帰属させるような、いかなる聖書へのアプローチの正当性も否定します。
第16条:私たちは、正典の本文とその意味を決定するにあたっては、正当な批評的手法を用いるべきであることを確認します。
私たちは、聖書批評のいかなる方法によっても、著者が表現した意味、あるいはその他の聖書の教えの真実性や完全性を疑問視することを許容することの正当性を否定します。」
無誤性に関する19条からなる詳細な定義については、『Innerrancy』の493~502ページに掲載されている『聖書の無誤性に関するシカゴ宣言』をご参照ください。第10条では、自筆原稿のみが無誤であったと明言しています。第19条では、真のクリスチャンであるために、無誤性を信じる必要はないと明言しています。
Q:「無誤性」の立場では、写本作成者による些細な誤りが混入した可能性を認め、かつ原本がもはや存在しないことを問題視しないのであれば、その誤りは原本にすでに存在していたと単純に言う方が理にかなっているのではないでしょうか?
A: 保守的なキリスト教徒は、聖書は神の言葉であり、その言葉が最初に記された際、神は一切の誤りを犯さなかったという私たちの見解から、そうは考えていません。
Q: 具体的には、「無誤性」と「過度な文字通りの解釈」は何が異なるのでしょうか?
A: 無誤説では、次のような留保が認められています:
出エジプト記 8:19、13:14、15:8、12、16、申命記 7:19、詩篇 91:4、ヘブライ人への手紙 4:13 に見られるような、擬人法的な表現
写本上の誤り。例えば、民数記3章28節、列王記上4章26節、歴代誌下18章12節、22章2節・5節、36章9節など
言葉の表現。例:出エジプト記33章11節、申命記32章50節。
概算、例えば丸めた数字など
特定の視点に基づいた記述。例えば、ヨハネが『ヨハネの黙示録』で、自ら耳にし、目にしたことを記したような場合
人間の著者の文体は、執筆において神によって用いられました。
聖書の霊感について詳しくは、ペトロの手紙第二 1:21 に関する解説をご覧ください。
Q:聖書の無誤性について、カトリック教会の公式な立場はどのようなものでしょうか?
A: 多くのカトリック信徒には様々な見解がありますが、ここでは教会の公式な立場をご紹介します。
『Catholic Apologetics Today』は次のように述べています。
「教会は、聖書には一切の誤りがないことを常に主張してきました。したがって、ピウス12世は(『Divino afflante Spiritu』)の中で次のように記しています。 『現代において、バチカン公会議[第1回]は、霊感に関する誤った教えを退けるため、これらの書物[聖書]は、教会によって「神聖かつ正典として」見なされなければならないと宣言しました。それは、「それらが誤りのない啓示を含んでいるからだけでなく、聖霊の霊感によって書かれたものであり、神を著者とし、そのようにして教会に伝えられてきたから」です。 しかしその後、あるカトリックの著述家たちが、カトリック教義のこの厳粛な定義に反して……聖書の真理を信仰と道徳の問題に限定しようと敢えてしたとき……。不朽の記憶に残る我らの先任者、レオ13世は、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』において……それらの誤りを正しく、かつ適切に反駁されました。」(イタリック体は原文のまま)
『カトリック教会のカテキズム』(Imprimi Potest)1994年版は、次のように述べています。
104 「教会は、聖書から絶えず糧と力を得ています。なぜなら、教会は聖書を単なる人間の言葉としてではなく、『それが実際に何であるか、すなわち神の言葉』として受け入れているからです。」
107 「霊感を受けた書物は真理を教えます。したがって、霊感を受けた著者や聖書著者が断言するすべてのことは、聖霊によって断言されたものと見なされるべきであるため、私たちは、聖書の書物が、私たちの救いのために神が聖書に託そうと望まれたその真理を、確固として、忠実に、かつ誤りなく教えていることを認めなければなりません。」
要約:聖書の無誤性に関するカトリック教会の公式見解は、以下の例外を除き、福音派/ファンダメンタリストの聖書観と同一です。
1. カトリック教会は、カトリックの旧約聖書に追加された書物や章節である、現代のカトリック外典を受け入れています。
2. カトリックの立場は、原典における聖書の無誤性については明らかに言及していませんが、現存する写本の一部には、神が許容された些細な写し間違いが含まれているとしています。
3. カトリック教会は、特にカトリック教会の伝統に照らして、聖書の解釈方法に関して異なる見解を持っています。
Q:「無誤」という用語はいつ初めて使われたのでしょうか?
A: ポール・D・ファインバーグによる『Inerrancy』(ノーマン・ガイスラー編)292ページの記事によると、5世紀後半から6世紀初頭に生きたボエティウスが、この用語を「誤りのないこと」を意味して用いました。 『オックスフォード英語辞典』によると、英語では1837年に初めて「誤りがない、間違いがない、絶対確実な」という意味で使用されました。「inerrancy(無誤性)」という名詞も、ほぼ同時期に用いられるようになりました。
Q:神が(イエスの、あるいはクリスチャンの)父である、あるいは御子をお持ちであるという証拠は、どのようなものがあるのでしょうか?
A: 旧約聖書において、神が「父」であるという概念は、かなり一般的でした。サムエル記下 7:14;歴代誌上 17:11-14;22:10;28:6; 詩篇2:7、箴言3:12、イザヤ書63:16、エレミヤ書3:19、31:9、ホセア書11:1、マラキ書1:6、2:10などです。箴言30:4f(BSB)には、「その御名は何か、その御子の名は何か――あなたがたは確かに知っているでしょう!」とあります。
新約聖書の27巻のうち、第三ヨハネの手紙を除くすべての書簡で、神が「父」であり、イエスが「神の子」であり、私たちが「神の子」であることが言及されています。例えば、マタイによる福音書6章9節で、イエスは私たちに「天におられる私たちの父よ……」と祈るように教えられました。 また、黙示録21章7節には、「勝利を得る者は、すべてのものを相続し、わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」という尊い約束が記されています(BSB)。
Q:初期のクリスチャンたちは、神が「父」であること、あるいは「御子」をお持ちであることについて、どのような教えを聞き、また教えていたのでしょうか?
A:新約聖書が書かれた直後の初期のイエスの信者たちも、このことについて記しています。以下に、西暦200年以前の9人の著者の引用をご紹介します。
『第一クレメンス書』(西暦96~98年)第23章(子)、第36章
『バルナバの手紙』(西暦70~130年頃)第5章(神の子)、第14章
『ポリカープの殉教について』(紀元169年頃)第14章の冒頭文など
『イグナティオスのエフェソの信徒への手紙』(西暦116年以前)第2章、第3章
パピアスの断片(西暦155年以前) 断片5(2回)
『ディオグネトスへの手紙』(紀元130年頃~200年頃)第10章
ユスティヌス・マルティルの『第一弁明』第13章(息子)、第15章(2回)(西暦150年)
アテナゴラスの『キリスト教徒の弁護』(西暦177年)第10章(2回)
テオフィロスからオートリコスへの書簡(西暦168-181/188年)第1巻第4章、第2巻第22章(2回)
さて、これほど多くのキリスト教徒が、神を「父」であると信じるようになったのは、どうしてでしょうか。その理由は、a) イエスからそう教わった、b) イエスの使徒たちからそう教わった、c) 旧約聖書に明記されていることからそう学んだ、あるいは d) 上記のすべて、のいずれかしか考えられません。
イスラム教徒の皆様への一考:神を「父」と見なしたり、三位一体の神としてイエスを崇拝したりする人が、それでも天国に行けるのでしょうか?もちろん、聖書は「はい」と答えていますが、この問いをイスラム教の観点から考えてみましょう。 イエスの時代以降、イエスを神の預言者として信じた人々は、イエスを神であると信じていました。神は、イエスの言葉に従おうとしたすべての人を地獄の火に落とすことを望まれたのか、あるいは、イエスを信じようとしたすべての人を悪意を持って惑わすことはなさなかったのか、どちらかでしょう。 もしイエスが真理を教えたのであれば(イスラム教徒もそう認めているように)、神は、預言者イエスが神から遣わされたという知識が、ムハンマドの時代に至るまで、すべての人々に嘘を教えることを望まれた、あるいは許されたと、あなたは信じますか? その嘘によって、人々は地獄に送られることになるのです。そのような気まぐれで邪悪な神を信じるのは難しいことですが、一方で、人々は深く考えもせずに、もっと奇妙なことを信じてきたのも事実です。
Q:イエス・キリストを自分の主であり救い主として受け入れなくても、天国に行くことはできますか?
A: いいえ、イエスを主であり救い主として受け入れることを拒むなら、天国に行くことはできません。その答えについて、考慮すべき4つのポイントをご紹介します。
公平さ:神は善であり、聖であり、すべての人に対して公平で、公正な方です(ヘブライ人への手紙 6:10)。神は、人が持っている知識に基づいて裁かれます(ローマ人への手紙 4:15、5:13)。アブラハムはイエスの御名を知りませんでしたが、神に従い、それでもなおイエスを通して救われました(ヨハネによる福音書 8:56、ヘブライ人への手紙 9)。
ただ一つの道:私たちは自分の義によって天国に行くことはできません。イエスを通して与えられる神の憐れみと恵みが必要です。イエスは単に神への道であるだけでなく、神への唯一無二の道なのです。(ヨハネ14:6、15:5、使徒4:12)
イエスを神の子として拒むことは、天国を拒むことです:非常に敬虔な人々であるユダヤ人のパリサイ人たちにさえ、イエスは、もし自分を受け入れなければ、確かに罪のうちに死ぬことになると語られました。(ヨハネ8:24)
神は求めておられます:神は、だれも滅びることを望んでおられません(ペテロの手紙第二 3:9)。しかし、エレミヤが自分の民のために泣いたように(エレミヤ書 13:17;14:17)、イエスがエルサレムのために泣いたように(ルカによる福音書 19:41-44)、そしてペテロが聴衆に懇願したように(使徒言行録 2:40)、神もまた、それと同じくらい強い願いをもって、ご自身の民を探し求めておられます。
Q:聖書の章や節は、どこから来たのでしょうか?
A: 現代の章と節の区分は、1228年に亡くなったカンタベリー大司教スティーブン・ラングトンによって定められました。この章と節の区分を用いて出版された最初のギリシャ語新約聖書は、1551年にパリの印刷業者ロバート・スティーブンスによって刊行されたもので、同氏は1555年にはウルガタ訳にも章と節の区分を設けました。1560年に刊行されたジュネーブ英語聖書が、章と節の区分を初めて採用した聖書です。
Q:なぜイスラム教に対してそれほど否定的なのですか?
A: 私たちはイスラム教徒の方々を愛しており、彼らが天国で永遠に喜びのうちに暮らせるよう、心から願っております。 私たちがイスラム教に対して批判的なのは、彼らのためなのです。しかし、私たちはイスラム教徒自身ほどイスラム教に対して否定的ではありません。パキスタンのモスクで、単にシーア派であるという理由だけで礼拝者が銃撃されるようなことがあれば、それは否定的なことです。モスクを建設したティムールが、イスファハンに住むイスラム教徒7万人の頭蓋骨を山積みにしたようなことがあれば、それはかなり否定的なことです。
キリスト教徒は、以下の3つの点において、ムスリム(あるいは他の誰に対しても)否定的な態度を取るべきではありません。
1. 私たちは、ムハンマドが私たちを呪ったように、決してムスリムを呪うことはありません。ムハンマドは生涯の終わりに、「ユダヤ人とキリスト教徒は、預言者たちの墓の上に礼拝所を建てたゆえに、アッラーが彼らを呪われますように」と述べました(ブハーリー第1巻第8冊第55章第427番p.255)。彼は、真のキリスト教徒と偽善的なキリスト教徒を区別せず、単に彼ら全員を呪ったことにご留意ください。
2. 私たちは、「中傷的」(=虚偽かつ否定的な)発言は一切行いたくありません。例えば、クルアーン第9章30節にあるように、ユダヤ人がアッラーの息子エズラ(ウザイル)を崇拝したからといって、彼らが邪悪だったなどと言うようなことです。
3. ブハーリー(第8巻、第72冊、第91章、第174番、p.113)によると、ムハンマドは「詩の中で異教徒を風刺せよ」と述べました。
ですから、少なくとも現代のイスラム教徒の方々とは(そう願っておりますが)、このような否定的な態度は神が望まれるものではないという点で意見が一致するはずです。
私たちに関しては、イエス様は記録されている御言葉の3分の1以上を、特定の人々を叱責したり、警告したり、一般に向けて警告したり、あるいは誤りを正したりすることに費やされました。イエス様は励ましもなさりましたし、私たちも同様です。私たちは「イエス様ならどうされるか」と問うだけでなく、「イエス様なら私たちに何を語ってほしいと願われるか」とも問うべきです。 はい、私たちはエレミヤや洗礼者ヨハネ、パウロ、そしてイエス様ご自身のように「警告者」ではありますが、同時にあなた方を愛していることも知っていただきたいのです。イスラム教徒がキリスト教徒を傷つけているとしても、私たちは決してあなた方を傷つけようとは思いません。あなた方のために最善を願っているのです。
Q:なぜキリスト教徒は(いわゆる)イスラム教徒を攻撃するのですか?
A: 私たちはイスラム教徒の方々のことを大切に思っており、攻撃などしていません。その答えとして、以下の3つの点を考えてみてください。ボスニアの人々、イエス様、そして村人たちです。
ボスニアの人々:セルビア人がボスニアのムスリムを容赦なく虐殺していた時、アメリカ人(あらゆる宗教の信者を含む)はそれに反対しました。セルビア人は、アメリカが自分たちに敵対していると受け取ったかもしれませんが、私たちはセルビアの人々に敵対していたわけではありません。 私たちは抑圧された人々を守るために立ち上がり、一部の(すべてではありませんが)セルビア人が行った残虐行為に反対したのです。同様に、アフガニスタン人に対しても何の敵意もありません。彼らへの支援物資の送付がそれを示しています。しかし、自国の民間人が攻撃を受けた際には、このような事態が二度と起こらないよう、自分たちを守るために対応したのです。
イエス様は「もう一方の頬も差し出せ」とおっしゃいましたが、私たちは個人としてそうしています。しかし、政府のレベルにおいては、ローマ人への手紙13章4節に「政府はむなしく剣を帯びているのではない」とあります。西洋文化はキリスト教そのものではありませんが、キリスト教はそれに多大な影響を与えてきました。西洋文化が常に正しいとは限りませんが、私たちは間違ったことに対しては立ち向かう義務があります。 人を殺害すること以外にも、間違っていることはあります。女性を二級市民として扱い、働くことを許さず、その証言の価値を男性の半分としか認めず、家から出ることをほとんど許さないことも、また別の過ちです。それが神の名の下に行われるとき、神は嘲笑されているのです。
今日、インドネシアやスーダンの村人たちは、単にキリスト教徒であるという理由だけで、イスラム教徒によって虐殺されました。世界中の多くのイスラム教徒が、なぜこのような行為を行うべきだと感じているのか、それにもかかわらず、イスラムの慣習に対する平和的かつ合理的な批判を、自分たちへの攻撃だと考えるのはなぜなのか、教えていただけませんか?
Q:なぜキリスト教徒はイスラム教徒に対して十字軍を繰り広げたのですか?
A: イエスは「平和の君」であり、宗教が違うという理由だけで誰かを殺せとは決して言われませんでした。「キリスト教」の十字軍は、聖書に記されたキリスト教の一部ではありませんでした。十字軍(あるいはキリスト教のジハード)は、ヨーロッパ人がイスラム教のジハードから学んだ誤った行為でした。
Q:キリスト教徒はどのように祈るのですか?
A: 聖書には手本となる祈りが数多くありますが、イエス様はマタイによる福音書6章9~13節で、弟子たちに具体的に祈り方を教えられました。キリスト教徒は祈りを神との対話と捉えています。そのため、暗記されたキリスト教の祈りはほとんどありません。キリスト教の祈りは、しばしば「イエス様の御名によって」といった言葉で締めくくられます。なぜなら、イエス様の犠牲によって初めて、私たちは父なる神に祈りを捧げることができるからです。(ヨハネによる福音書16章26節)
クリスチャンは、テサロニケ人への手紙第一5章17節、エペソ人への手紙6章18節、ピリピ人への手紙4章4節・6節、ヘブライ人への手紙13章15節に命じられている通り、またローマ人への手紙1章9-10節、コロサイ人への手紙1章9節、テサロニケ人への手紙第一1章2-3節・3章10節の模範に従って、絶えず神に祈るべきです。
これはイスラム教とは異なります。イスラム教では、『ブハーリー』第2巻第21冊第38章第283番(p.158)によると、祈りが禁じられる特定の時間帯が定められています。『フィクフ・アス=スンナ』第2巻p.11には、次のように記されています。「『ウマルは彼を見て、こう言いました。「座りなさい。啓典の民は、祈りの区別をつけなかったために滅びたのです。」すると預言者はこうおっしゃいました。 『よく言った、イブン・アル=ハッタブよ。』」
Q:死海文書に含まれる聖書以外の写本において、「義なる師」とは、ムハンマド、イエス、洗礼者ヨハネ、あるいはその他の誰かを予言しているのでしょうか?
A: いいえ、そうではありません。なぜなら、それらの写本自体が示す証拠によれば、彼らが「義の教師」と呼んだ人物は、これらの写本が書かれる以前に現れていたからです。以下は、フロレンティーノ・ガルシア・マルティネス著『死海文書翻訳:クムラン文書英語版』から引用した関連部分です。
「義の教師」は、バビロン捕囚から390+20年後に現れました。バビロン捕囚は紀元前586年のことでしたので、それはマカバイの時代のことであり、キリストの時代よりはるかに前のことになります。
「彼らが不忠実となり、神を見捨てたとき、神はイスラエルと御自身の聖所から御顔を隠し、彼らを剣の手に委ねられました。しかし、神は最初の契約を思い起こされ、イスラエルの残りの民を救い、彼らを滅びに委ねることはされませんでした。 そして、怒りの時、すなわち彼らをバビロンの王ネブカドネザルの手に引き渡してから三百九十年後、神は彼らを顧みられ、イスラエルとアロンの中から、植わった若木を芽吹かせられました。それは、神の地を所有し、その土壌の恵みによって豊かになるためでした。 そして彼らは自らの罪に気づき、自分たちが有罪であることを悟りました。しかし、彼らはまるで盲人のようであり、二十年以上にわたり道を探り当てる者たちのようでした。神は彼らの行いを評価されました。なぜなら、彼らは完全な心をもって神を求め、神は彼らを御心の道へと導くために、義の教師を立てられたからです。」 ゲニザ所蔵のダマスカス文書写本(CD-A)第1欄3行目~11行目、33ページ
同じことが、『ダマスカス文書』の写本4Q268(=4QD(c))13行目~17行目(p.48)および4Q266(=4QD(a))断片2の7行目~14行目(p.49)にも記載されています。 なお、2つの写本(AおよびB)はカイロのユダヤ教ゲニザに由来し、西暦900年以降に作成されたものであるのに対し、他の2つの写本は死海文書の中にあり、キリストの時代前後のものであることにご留意ください。
余談ですが、「義の教師」は、ハバクク・ペッシャー(1QpHab)の1列13行(p.198)、2列2行(p.198)、5列10行(p.199)、7列4行(p.200)、8列3行(p.200)、 第9欄9行目~10行目(p.201)、第11欄5行目(p.201)にも、目立つ形で言及されています。
また、『詩篇ペシャー』(4Q173断片1、p.206)にも、「義の教師」についてごく簡潔な言及があります。
結論:
「義の師」はクムラン共同体の創設者でした(p.liii)。
序文ではまた、信頼性を失ったさまざまな説において、「義の師」がイエスである、あるいは洗礼者ヨハネである、あるいは使徒ヤコブであると主張されてきたと述べられています。さらに、「しかし、これらすべての説に共通しているのは、考古学的調査によって導き出された結論を否定している点です。その結論とは、すべての写本が西暦68年のキルベット・クムランの破壊以前に洞窟に隠された(ひいては、その前に書かれた)ものであるというものです。 とりわけ、これらの説は、写本の古文書学的分析による結論を否定しています。」(p.xlvii)
フロレンティーノ・ガルシア・マルティネス氏は、オランダのフローニンゲン大学にあるクムラン研究所の所長を務めています。
Q:聖書のどの箇所や言葉がアラム語で書かれていますか?
A:旧約聖書では、ダニエル書2章4節b~7章28節において、異邦の諸国に関する箇所がアラム語で記されています。エズラ記4章8節~6章18節、7章12節~26節もアラム語です。エレミヤ書10章11節はアラム語です。創世記31章47節にある「イェガル・サハドゥタ」という地名もアラム語です。
新約聖書では、マタイによる福音書27章46節aに、イエスのアラム語の言葉が記録されています。ヨハネによる福音書19章13節には、石畳の場所がアラム語で「ガバタ」と呼ばれていたと記されています。マルコによる福音書5章41節では、イエスが少女に向かってアラム語で「タリタ・クム」と語りかけました。
Q:死海文書という聖書外の手稿において、あるイスラム教徒が主張したように、[いわゆる]「祭司的なメシア」はイエスであり、[いわゆる]「王的なメシア」はムハンマドの預言である可能性はあるのでしょうか?
A: いいえ。まず第一に、死海文書には「祭司的なメシア」も「王的なメシア」も存在しません。むしろ、死海文書の中にはメシアが一人しか登場しないものもあれば、アロンのメシアとイスラエルのメシアという二人のメシアが登場するものもあります。ムハンマドはイスラエルのどの部族の出身だったのでしょうか? ムハンマドはイスラエルのどの部族にも属していなかったため、彼がそのどちらであるとも言い切れません。
『共同体の規則』(1Q)第9欄、13~14ページにおける、アロンのメシアとイスラエルのメシアに関する記述
これらの規定は、邪悪の時代を通じて、アロンのメシアが現れるまで遵守されなければなりません。『ダマスカス文書』CD-A 12列 23行 p.43
『ダマスカス文書』CD-A、第9欄10~11行、45ページ;第19欄10~11行、46ページ;第20欄1行、46ページにおける、アロンとイスラエルのメシア(単数形)に関する言及
アロンとイスラエルのメシア(単数形)についての言及。4Q266 断片18 3列12行 p.56
さらに、アロンのメシアは「義の師」と同一人物です。「その解釈は、祭司、すなわち『義の師』に関するものです。神は彼を御自身の前に立たせるよう選ばれ、彼のために『選ばれた者たちの会衆』を設立するよう彼を任命されたのです」『詩篇ペシェル』4Q171、第3欄13~16行、205ページ
『会衆の規則』(1Q28a)第2欄、127ページには、メシアについて多くのことが記されています。「[神]が彼らと共にメシアを産み出される時」(11行目;「[神]」はフロレンティーノの著書に記載されています)。 「その後、イスラエルのメシアが入り、その前には、イスラエルの氏族の長たちが、それぞれの位階に従って座するでしょう」(14~15行目)。
ムハンマドはワインを飲んだのでしょうか。「そして、彼らが共同体の食卓に集まり、新しいワインを飲むために、共同体の食卓が整えられ、新しいワインが飲むために混ぜられたとき、 [誰も]祭司より先に、パンと[新酒]の初穂に手を伸ばしてはなりません。なぜなら、[祭司こそが]パンと新酒の初穂を祝福し、彼らの前でパンに向かって手を伸ばす者だからです。その後、イスラエルのメシアがパンに向かって手を伸ばすのです。」17~20行目。
結論:アロンのメシアは「義の教師」です(『詩篇ペシェル』4Q171 3列 13~16行 p.205)。したがって、それはキリストではありません。王としてのメシアは存在せず、イスラエルのメシアのみが存在します。また、ムハンマドはイスラエル出身ではありません。
Q:なぜこれほど多くの質問に答えるのですか?
A: これは聖書に関する質問であると同時に個人的な質問でもありますが、とにかく答えを述べさせていただきます。
「頭がおかしいから」「他にやることがないから」「暇すぎるから」といった答えは除いて、私はこれが必要だと感じ、祈りを捧げた上で、この取り組みを始めました。これは、1997年の春、フォレスト・グレンで開催された「クリスチャン・ライフ・リトリート」で、聖書の無誤性に関するワークショップを指導した際に使用した4ページの配布資料に由来するものです。 この配布資料では、創世記に関する重要な質問にはすべて答えたつもりでした。
いずれにせよ、私よりもはるかに優れた能力を持つ多くのクリスチャンの方々が、聖書に関する疑問に答える優れた本をすでに数多く執筆されています。しかし、彼らは300、500、あるいは800もの質問にかなりうまく答えてはいたものの、網羅的ではありませんでした。さらに、その回答は電子形式ではなく、著作権に関する記載も、クリスチャンが自由に回答を複製・共有できるような内容ではありませんでした。 私が、これらすべての質問に対する回答を用意することが重要だと考える理由は、以下の通りです。
ペテロの手紙第一 3章15節「しかし、あなたがたの心の中で、キリストを主として聖別しなさい。あなたがたの内に宿る希望の理由について尋ねてくるすべての人に対して、いつでも弁明できるように備えておきなさい。しかし、柔和さと敬意をもって答えなさい。」懐疑的な非信者たちは、聖書は間違っている、あるいは矛盾していると主張します。そのため、信者たちは答えを得るための拠り所を必要としているのです。
テサロニケの信徒への手紙第二 2:15 「ですから、兄弟たちよ、堅く立ち、私たちが口頭であれ手紙であれ、あなたがたに教えた伝統にしっかりとしがみついてください。」クリスチャン自身も、教義や言葉について疑問を抱くことがあるかもしれません。
箴言 30:5 「神の言葉はすべて完全であり、神は、神に避難する者たちの盾です。」(BSB)。原典に誤りがあったと信じる人でも、真のクリスチャンであることは可能ですが、聖書に誤りがないことを認識することが重要だと私は考えます。 しかし、クリスチャンが聖書に誤りがないと主張するならば、誰かが提起しうるほぼすべての異議に対する答えを用意できているべきであるように思われます。本書は、まさにそのことを目指しています。
これらの回答が常に最善のものとは限りません。そのため、より詳細な説明が掲載されている様々なキリスト教関連の書籍からの回答も併せて紹介しています。もし、ここでの回答が不十分である、あるいは改善の余地があるとお考えでしたら、ご提案をいただければ幸いです。